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<新聞雑誌記事><記事 タイトル="" サブタイトル="" 文献="0" 人物="観点（えころじー概論）" 年月日="gairon00" 連続="4" 画像="img/700003.jpg" 横サイズ="background" 移動="1" リンク名="" リンク="" コメント="" ジャンプ="eco_gairon">&lt;table&gt;&lt;tr&gt;&lt;td&gt;&lt;font size=4&gt;&lt;a href=../&gt;&lt;font color=white&gt;Home&lt;/font&gt;&lt;/a&gt;&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;&lt;/td&gt;&lt;td&gt;&lt;FORM ACTION=&quot;search.cgi&quot; METHOD=&quot;POST&quot;&gt;&lt;input type=&quot;submit&quot; value=&quot;えころじーmikko内検索&quot;&gt;&lt;/FORM&gt;&lt;/td&gt;&lt;td&gt;&lt;FORM ACTION=&quot;hyoji2.cgi&quot; METHOD=&quot;POST&quot;&gt;&lt;INPUT TYPE=&quot;hidden&quot; NAME=&quot;mark&quot; VALUE=&quot;mark&quot;&gt;&lt;INPUT TYPE=&quot;submit&quot; value=&quot;Mark&quot;&gt;&lt;/FORM&gt;&lt;/td&gt;&lt;td&gt;&lt;font color=green size=2&gt;Markボタンは管理者用です&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;&lt;/font&gt;&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/table&gt;&lt;center&gt;&lt;a href=eco_watashitati.xml&gt;私たちにできること&lt;/a&gt;&lt;/font&gt;&lt;br/&gt;┌────┬────┬──┴──┬─────┬────┐&lt;br/&gt;&lt;font style=&quot;background-color : ivory;&quot;&gt;&lt;b&gt;概　論&lt;/b&gt;　&lt;a href=eco_seibutsu.xml&gt;生物への影響&lt;/a&gt;　&lt;a href=eco_osen.xml&gt;汚　染&lt;/a&gt;　&lt;a href=eco_shoshigen.xml&gt;ゴミ・省資源&lt;/a&gt;　&lt;a href=eco_shoene.xml&gt;省エネ・温暖化&lt;/a&gt;　&lt;a href=eco_genshiryoku.xml&gt;原子力&lt;/a&gt;&lt;/center&gt;&lt;/font&gt;　　　　　┌─┼───────┐&lt;br/&gt;　　　&lt;font style=&quot;background-color : ivory;&quot;&gt;&lt;b&gt;観　点&lt;/b&gt;　&lt;a href=eco_summit.xml&gt;地球サミット&lt;/a&gt;　&lt;a href=eco_chiiki.xml&gt;地域の取り組み&lt;/a&gt;&lt;/font&gt;&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;</記事>
<記事 タイトル="エコロジー概論／" サブタイトル="参照したサイト" 文献="0" 人物="┣" 年月日="gairon00" 連続="3" 画像="" 横サイズ="" 移動="2" リンク名="" リンク="" コメント="" ジャンプ="eco_gairon">・&lt;a href=http://www.yasuienv.net/ target=_blank&gt;&lt;b&gt;市民のための環境学ガイド&lt;/b&gt;&lt;/a&gt;　環境全般についてたいへん勉強になりました。&lt;br/&gt;・&lt;a href=http://www.eic.or.jp/ target=_blank&gt;&lt;b&gt;EICネット：環境情報案内・交流サイト&lt;/b&gt;&lt;/a&gt;　言葉や歴史を捜すときにとても役に立ちました。&lt;br/&gt;・&lt;a href=http://www.id.yamagata-u.ac.jp/EPC/top.html target=_blank&gt;l山形大学環境保全センタ−&lt;/a&gt;　記事としての膨大な資料があります。</記事>
<記事 タイトル="エコロジー概論／" サブタイトル="「何が正しくないか」を知ること" 文献="0" 人物="┃┗環境問題を正しく見るコツ　" 年月日="2007/02/18(Sun)" 連続="" 画像="" 横サイズ="" 移動="3" リンク名="安井氏01.08.2006" リンク="" コメント="一理ある意見に公平に耳を傾けること。そのうちにその正しさにランク付けができていく。" ジャンプ="eco_gairon">　まとめれば、（１）多種多様な知識、（２）相反し交錯する原理である。しかし、この（１）、（２）にしても、なんとか対応の仕方はあるように思えるのである。恐らくそのコツは、何が正しいかを知ろうとしすぎないことではないか。むしろ、「何が正しくないか」、「情報はどのように歪んでいるか」、を知ることなのではないだろうか。 http://www.yasuienv.net/NotCorrect.htm</記事>
<記事 タイトル="エコロジー概論／エコロジーから見えてくるもの" サブタイトル="" 文献="0" 人物="┣エコロジーから見えてくるもの" 年月日="gairon00" 連続="" 画像="" 横サイズ="" 移動="4" リンク名="" リンク="" コメント="" ジャンプ="eco_gairon"></記事>
<記事 タイトル="環境と生命" サブタイトル="社会体制が見えてくる" 文献="0" 人物="┃┣" 年月日="gairon00" 連続="3" 画像="" 横サイズ="" 移動="5" リンク名="神学セミナーメモ19901023綿貫礼子講師" リンク="" コメント="南北問題" ジャンプ="eco_gairon">　環境問題は体制を越えて起こってくる。人間社会にすぐに影響する。人間だけが中心ではない。生態系の一員である人間、人間はそれらによって活かされている。環境問題は「南北問題」と深い関係がある。  &lt;br/&gt;&lt;br/&gt;最終的には、途上国や飢えに苦しむ人々に真っ先にしわ寄せが行くだろう。(03.01.06毎日社説）</記事>
<記事 タイトル="レスター・ブラウン「環境と経済」環境に関心を持たなければテロが起こる" サブタイトル="苦悩の帝国をゆくE" 文献="0" 人物="┃┃┗" 年月日="2004.6.1?" 連続="" 画像="" 横サイズ="" 移動="6" リンク名="ＴＢＳ／ニュース２３" リンク="" コメント="21世紀になって東西問題でも､南北問題でもない新しい社会問題が起こっているように思う。それはもっと根源的な問題かもしれない。" ジャンプ="eco_gairon">地球の末期的症状…&lt;b&gt;成長の限界&lt;/b&gt;&lt;br/&gt;&lt;img src=img/0406240001.JPG align=left&gt;&lt;font size=2&gt;ここに貼り付ける画像がどこかに行ってしまいました。&lt;/font&gt;&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;限界の秒読みは始まっている。&lt;br/&gt;人類はその元本に手をつけている。&lt;br/&gt;PLAN　B&lt;br/&gt;魚を捕りすぎないうちは&lt;br/&gt;魚が成長するより捕獲が大きくなると…&lt;br/&gt;エコ・エコノミー&lt;br/&gt;環境は経済の一部と考えるのは間違い。その逆である。&lt;br/&gt;大本の環境に依存する経済システムを考えなければならない。&lt;br/&gt;地球の未来を描いた「ザデイ・アフター」はその様をリアルに表す。&lt;br/&gt;地球の温暖化…２００２年鳥取と同じ大きさの棚氷がくずれた。&lt;br/&gt;２．５度あがると食糧不足に。食料生産は大幅に減っている。&lt;br/&gt;世界的にも穀物の生産量が著しく減った。&lt;br/&gt;中国では黄河の断流がみられる。&lt;br/&gt;８億４０００万人が栄養不足。&lt;br/&gt;我々が環境に関心を持たなければ、西洋文明を滅ぼすために思いもかけない方法でテロが起こる。&lt;br/&gt;</記事>
<記事 タイトル="環境と生命" サブタイトル="綿貫礼子" 文献="3" 人物="┃┣" 年月日="gairon00" 連続="1" 画像="" 横サイズ="" 移動="5" リンク名="メモ" リンク="" コメント="" ジャンプ="eco_gairon">フリーの環境問題研究家。日本平和学会理事。日本学術会議平和問題研究連絡会委員。全国自然保護連合インターナショナルプロジェクト会員。&lt;br/&gt;１９７０年から環境問題に関わる。ベトナム戦争の激しいときで、枯れ葉剤によるダイオキシンの問題に関心。&lt;br/&gt;著書：生命系の危機。胎児からの黙示。ダイオキシン汚染のすべて。有機農業の事典。胎児からの警告。荒れる大地。廃炉にむけて。等。&lt;br/&gt;</記事>
<記事 タイトル="環境と生命" サブタイトル="フェミニズムと環境問題" 文献="0" 人物="┃┣" 年月日="gairon00" 連続="3" 画像="" 横サイズ="" 移動="8" リンク名="神学セミナーメモ19901023綿貫礼子講師" リンク="" コメント="環境問題は女性の方が直観できる" ジャンプ="eco_gairon">　女性は「生命の連鎖」の中で直観的に危機を感じることが出来る。「いのち」の問題は女性の方が直観出来る。連鎖を感じさせない「命」は間尺に合わない。&lt;br/&gt;　ＤＤＴ問題について書かれたレイチェル・カーソン著「沈黙の春」、春になっても生命が生まれない自然。石牟礼道子著「苦海峡」などは示唆に富む。日本が先駆的に出会った環境問題。</記事>
<記事 タイトル="エコロジー概論／観点" サブタイトル="まず母親たちが" 文献="0" 人物="┃┃┗" 年月日="gairon00" 連続="1" 画像="" 横サイズ="" 移動="9" リンク名="上毛新聞論説19910210「環境保全を日本の道に」" リンク="" コメント="10067" ジャンプ="eco_gairon">‥‥環境庁は１９７１年７月‥‥自然環境保護、整備などを総合的に行う機関として発足。尾瀬の横断道路建設にまったをかけ、環境庁の名を上げた。この２０年間に私たちの環境意識も大きく変わった。‥‥包装紙はいらないとか、てんぷら油を下水に捨てるのをやめようとかの声は日常的になった。近くの山里では無節操なゴルフ場開発が始まると、署名活動など無縁だった&lt;b&gt;普通の女性達が手を組んで開発反対を叫んでいる&lt;/b&gt;。組織的な動員やキャンペーンの結果ではない。「草の根」が自発的に、一斉に芽を出し始めたのである。多分、&lt;b&gt;男達よりも、子供を生んだ母親達の心のなかで先に、その子の未来を思って意識革命が始まったのだろうと思う&lt;/b&gt;。‥‥既成のイデオロギーによるのではなく、未来を考えた自発的な行動だ。既存の政治、政党がどこまでこの社会の底流を理解し得ているだろうか。‥‥例えば湾岸戦争による油流出についても、世界に率先して除去に立ち上がれるような国家の仕組みを作れないか。わが国にはそれだけの財力、技術はある。</記事>
<記事 タイトル="環境と生命" サブタイトル="未来世代への関心" 文献="0" 人物="┃┣" 年月日="gairon00" 連続="3" 画像="" 横サイズ="" 移動="10" リンク名="神学セミナーメモ19901023綿貫礼子講師" リンク="" コメント="科学は「原因」を探る学問のみならず、「結果」＝将来への観点も大切" ジャンプ="eco_gairon">　日本だけが環境問題について関心が薄い。最近、チェルノブイリ以後、ソ連の環境問題に対しての関心が高まっている。&lt;br/&gt;　今までの生化学は過去の研究が主であったが、今日、将来世代(unborn age)の研究が問われている。私はこの観点から「胎児からの黙示」（世界書房）を書いた。「生」と「死」の問題。発ガン因子を持つ遺伝子の存在など、「死」も今日ナチュラルな死が無くなっている。広島・長崎の原爆で二世の癌発生がここ数年頻発している。&lt;br/&gt;　しかし、二世、三世への放射能の影響は今日まだよくわかっていない。それ故、原爆との因果関係が説明されにくく、世の中の理解が得られにくい。長崎の被爆二世のお母さんが書いた「終わりはいつですか」はそういう問題の示唆に富む。</記事>
<記事 タイトル="環境と生命" サブタイトル="過小評価される因果関係" 文献="0" 人物="┃┣" 年月日="gairon00" 連続="3" 画像="" 横サイズ="" 移動="11" リンク名="神学セミナーメモ19901023綿貫礼子講師" リンク="" コメント="当事者からは過小評価されやすい" ジャンプ="eco_gairon">　ダイオキシンは戦争時「化学兵器」（枯れ葉剤）として使われるが、平和時も「除草剤」として現代世界にふり撒かれている。&lt;br/&gt;　１９６０年〜７２年頃、ベトナム戦争で頻繁に使われ、この頃子どもであった人たちに、今、癌になる人が多い。&lt;br/&gt;　被害はここまでで終わりという、出来るだけ小さくみせる力が働く。隠すパワー。事故が起こった場合人々に知らされないと言うのが通例となっている。しかし、実際には慢性的に症状が起こり、時差を持って被害が及ぶ。&lt;br/&gt;　チェルノブイリ事故でその地方の癌の発生率が１７パーセント増えたという。しかしその因果関係を証明することが出来ない。特に次の世代に残されるものが多い。</記事>
<記事 タイトル="環境と生命" サブタイトル="行動を起こす人間" 文献="0" 人物="┃┣" 年月日="gairon00" 連続="3" 画像="" 横サイズ="" 移動="12" リンク名="神学セミナーメモ19901023綿貫礼子講師" リンク="" コメント="自分の子供たちの問題なのだからあきらめてはいけない" ジャンプ="eco_gairon">　自然に対して人間が何をしていいのか。やってはいけないことがある。人間が作り出したものは自然に消化する力がない。私たちの世代より次の世代に濃くなって残されてゆく。&lt;br/&gt;　原発はエネルギーの問題よりも「生命」の問題である。師の著書「廃炉に向けて」はそのテーマである。&lt;br/&gt;　東欧には子どもを生まない運動がある。しかも１６、７の子どもたちがそれを言っている。&lt;br/&gt;　遺伝子の異常は、確立が高くなるという形で後生に残される。&lt;br/&gt;　世界が汚されて、きれいなところがなくなると比較するものがなくなる。&lt;br/&gt;　環境破壊問題について、希望を持って語るのはミヒャエル・エンデである。見てしまったら、必ず社会を変えていこうとする人間を信頼している。&lt;br/&gt;　原発労働者の健康調査、追跡調査は現在のところされていない。</記事>
<記事 タイトル="環境と生命" サブタイトル="つきつめていけば「生命」の問題" 文献="0" 人物="┃┗" 年月日="gairon00" 連続="3" 画像="" 横サイズ="" 移動="13" リンク名="メモ20030104" リンク="" コメント="非生命に対しての環境問題ってあるのだろうか？_" ジャンプ="eco_gairon">　人間以外の生命に関する「生存圏（権）」の問題が「生物への影響」「開発」で扱われ、人間を含めた生命への内的影響が「汚染」＝化学物質汚染（環境ホルモン・鉛中毒・ダイオキシンなど）「原子力」で扱われることになるようだ。</記事>
<記事 タイトル="エコロジー概論／エコロジーから見えてくるもの" サブタイトル="自然と人間は対立するものではない" 文献="0" 人物="┃　┣" 年月日="gairon00" 連続="3" 画像="" 横サイズ="" 移動="14" リンク名="鳴神通信（桐生市梅田）19900520" リンク="" コメント="里山は自然と人間の共生の風景である。" ジャンプ="eco_gairon">自然保護か開発かではない&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;　よく自然保護か開発かという人がいますが、それほど単純な問題ではありませんし、絶対的に対立するものでもありません。人間は自然界から資源を得て、それを食べ、それを使い道具を作り、木を切って家を立ててきました。山に入れば、春には山菜をとり、秋にはきのこを採ってきました。一番おいしいのは天然のものです。人間もまた自然の中で、その一部として生きています。</記事>
<記事 タイトル="エコロジー概論／エコロジーから見えてくるもの" サブタイトル="ディープエコロジー" 文献="0" 人物="┃　┗" 年月日="gairon00" 連続="3" 画像="" 横サイズ="" 移動="15" リンク名="山形新聞19980312／精神世界を歩く岩谷孝子（アイサーチ・ジャパン代表）" リンク="" コメント="イルカを通し、地球や宇宙のリズムとつながる" ジャンプ="eco_gairon">相互に依存しあう人間と自然／「生命の織物」深く問う&lt;br/&gt;三月下旬から日本で開催される第七回国際イルカ・クジラ会議。主催はアイサーチ・ジャパン。&lt;br/&gt;＜不思議な感覚＞&lt;br/&gt;　１９８８年のオーストラリアでの第一回会議以来、研究者だけでなく、様々なジャンルの人々が集い、それぞれの立場から自然との関わりについて考えてきた。「９１年にバハマで初めて接したのですが、（イルカと出会って）感動しました。スローモーションのようでした。その感覚が、心の奥深い、ふだん使っていないところに刻まれたようで、都会にいてもその感覚がある。これがみんなの言っていた、イルカの癒しなのかな、と」&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;＜根本原因から＞&lt;br/&gt;　ディープエコロジー。ノルウェーの哲学者、アルネ・ネスが１９７０年代初頭に提唱した概念だ。深くて長期的なレンジでのエコロジーを指し、人間と自然を対置的に切り離さず、すべてが相互につながり合い、依存していると考える。対症療法的に環境保護に取り組むのではなく、問題の根本原因を見つめ、「深く問う」ことを据える。</記事>
<記事 タイトル="エコロジー概論／観点／循環型社会" サブタイトル="持続可能な循環社会の実現に向けて" 文献="0" 人物="┣循環型社会" 年月日="gairon01" 連続="" 画像="" 横サイズ="" 移動="16" リンク名="NPO法人_環境文明２１Ｗｅｂサイトより20021229読む" リンク="" コメント="きちんとした方針（普遍原則）に従うべきだ。" ジャンプ="eco_gairon">　大量生産・大量消費・大量廃棄のワンウェイ型社会から環境負荷の少ない持続可能な循環社会に作り変えていかなければならない。&lt;br/&gt;&lt;font color=green&gt;&lt;br/&gt;「川の流れのように」…美空ひばりの歌ではないが、物は流れてまた戻ってくる。&lt;br/&gt;水が自然界を流転するように「万物は流転する」&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;参照&lt;a href=hyoji2.cgi?tensou=eco_osen&amp;nengappi=2007/12/07(Fri)&gt;地上のすべての物質は、海から蒸発した後、雨と川水で海に帰る&lt;/a&gt;&lt;br/&gt;&lt;/font&gt;&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;</記事>
<記事 タイトル="エコロジー概論／観点／循環型社会" サブタイトル="1990年国民生活白書「人にやさしい技術の開発」" 文献="0" 人物="┃┣" 年月日="2007/02/16(Fri)" 連続="3" 画像="" 横サイズ="" 移動="17" リンク名="上毛新聞1990.10.31" リンク="" コメント="" ジャンプ="eco_gairon">社会資本、地球環境に重点&lt;br/&gt;相沢経済企画庁長官は３０日１９９０年度国民生活白書を提出した。&lt;br/&gt;白書は高度に発達した日本の消費社会を支え、リードする生活関連技術の動向に着目し、&lt;br/&gt;生活の質を高めるには、技術開発の方向を消費財だけでなく、&lt;br/&gt;都市の交通、▼廃棄物処理など社会システムや▼地球環境にまで拡大していく必要がある&lt;br/&gt;と強調している。‥‥&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;【第一部】日本人の生活に▼豊かさの実感が伴わない原因の一つは、&lt;br/&gt;豊かな私的消費と貧しい社会的消費の不均衡にあると結論付け、&lt;br/&gt;貯蓄率が高く本格的な高齢化社会が来ないうちに社会資本を質の面で充実させるべきだ&lt;br/&gt;と提言している。&lt;br/&gt;【第二部】日本人の生活を本当に豊かにするには、▼企業の競争力強化中心に使われている技術開発力を、都市のエネルギー、交通、廃棄物処理など社会システム改善に生かす一方、地球環境に悪い影響を与えないような方向に、技術体系を変えて行くべきだと主張している。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;</記事>
<記事 タイトル="エコロジー概論／観点／循環型社会" サブタイトル="リサイクル・ごみの抑制・スローライフ" 文献="0" 人物="┃┗" 年月日="gairon01" 連続="3" 画像="" 横サイズ="" 移動="18" リンク名="山形新聞／政治・行政20030123" リンク="" コメント="国の計画案" ジャンプ="eco_gairon">ゴミ処分量１０年度半減目指&lt;br/&gt;　リサイクル促進とゴミの発生抑制を目指す、国の２０１０年度までの循環型社会形成促進基本計画案が２２日明らかになった。１０年度のゴミ処分量を２０００年度の約半分の２７００万トンとし、国民と企業の意識改善目標も定めている。&lt;br/&gt;・大量生産と大量消費の社会は持続不可能&lt;br/&gt;・資源を循環させ自然と共生する社会を&lt;br/&gt;・四季を感じながら生きる（スローライフ）&lt;br/&gt;・生ゴミの堆肥利用&lt;br/&gt;・廃棄物の最終処分量を約半分の２７００万トンに&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;&lt;font color=blue&gt;四季を感じながら生きる…とは&lt;/font&gt;</記事>
<記事 タイトル="エコロジー概論／観点／環境問題批判" サブタイトル="リサイクルと生活の見直しはムリ" 文献="0" 人物="┃　┣" 年月日="gairon02" 連続="" 画像="" 横サイズ="" 移動="19" リンク名="文芸春秋19920500福田和也（文芸評論家）" リンク="" コメント="環境問題批判" ジャンプ="eco_gairon">民主主義では地球は守れない／全体主義的統制なしに解決する道はあるのか&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;１．環境が大事という「空気」 &lt;br/&gt;　気がつくと、いつの間にか、私たちの身の回りは、エコロジーや環境問題で埋め尽くされている。&lt;br/&gt;　（中略）ひとつのメッセージを異口同音に唱えている空気は、それがもっともな話しであればあるほど、何か不思議で、これで本当にいいのだろうか、という不安も抱かせる。&lt;br/&gt;　例えばアメリカでは、清涼飲料水のビンを、強制的にリサイクルする法律がいくつかの州で採択されている。だが、ビンの再利用に伴う洗浄と殺菌のために、従来に比べて水は１５倍、ガソリンおよびディーゼル燃料は２５％も使用量が増えたという（『強制的デポジット制度 その恩恵を受けるものはいない』全米ソフトドリンク協会）。  &lt;br/&gt;&lt;font size=3 color=blue&gt;総合的に環境保護の実施を行っていかないと結果的には逆行していることもある。実情の分析修正が必要だ。&lt;/font&gt;&lt;br/&gt;  &lt;br/&gt;２．ニュー・グローバリズムの虚構 &lt;br/&gt;　日本は、ＣＯ2の排出量が一人当たり２．２トン（アメリカ５．５トン強、旧西ドイツ３トン）総生産ＧＤＰ当たりのＣＯ2排出量は、０．１３トン／１０００ドル（アメリカ０．４３トン）（データは、平成２年版、３年版『環境白書』）。&lt;br/&gt;　こうした低公害と高い効率性は、公害問題や石油ショックに際して、日本が真剣に省エネルギーと排気ガス対策に取り組んだ、誇るべき成果であるのは確かである。省エネと公害防止のノウハウについては、日本は世界一といっても過言ではない。&lt;br/&gt;　（中略）環境政策として「一国の狭い『国益』を脱却し、新たな『脱国家利益』あるいは『地球益』（グローバル・インタレスト）の視点に立脚した国際協力を展開し、それをわが国の言葉として、国際的に主張していくべきである。  &lt;br/&gt;&lt;font size=3 color=blue&gt;この点で確かに日本は世界の指導者だが、まだ国益から脱却してない。&lt;/font&gt;&lt;br/&gt;  &lt;br/&gt;３．地球規模の計画経済体制は可能か&lt;br/&gt;　二酸化炭素の抑制による化石燃料の制限は、遅かれ早かれ工業生産や交通に制約をきたし、経済成長の停止をもたらすのである。&lt;br/&gt;　‥‥発展途上国の場合、利益の追求がどうしても優先されてしまうために、経済成長のペースの方が効率化よりも早くなり、二酸化炭素の排出量が飛躍的に増えていく可能性が高い。&lt;br/&gt;　‥‥このことは、いかに現在しめされている環境対策が不毛であり、実現不可能であるかを示している。  &lt;br/&gt;&lt;font size=3 color=blue&gt;生活スタイルの見直しが必要。できないという&lt;/font&gt;&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;４．アメリカが躊躇した意味&lt;br/&gt;　ＣＯ2の抑制は、アメリカ建国の精神と、その消費文明とライフ・スタイル全体が象徴しているような、個人の自由や、豊かさ、経済的成功の称賛、そして民主主義等の価値観と、相容れないのである。&lt;br/&gt;　‥‥アメリカの姿勢は、いかにそれが泥沼に足を取られた巨象の懊悩であるとしても、日本の軽薄な迎合に比べれば、はるかに真剣に環境問題にとり組んでいる、‥‥と私には思えるのだ。  &lt;br/&gt;&lt;font size=3 color=blue&gt;アメリカの言い分をうまく代弁しているようでもある。&lt;/font&gt;</記事>
<記事 タイトル="エコロジー概論／観点／聖書的考察" サブタイトル="聖書にみる分別の発想" 文献="0" 人物="┃　┣" 年月日="gairon04" 連続="" 画像="" 横サイズ="" 移動="20" リンク名="神学セミナー19901023泉師" リンク="" コメント="分別することで広がる自由＝責任" ジャンプ="eco_gairon">&lt;font size=3&gt;&lt;b&gt;人間が地を、地は人間を作る&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br/&gt;「食べる」という同化作用（和解作用）。&lt;br/&gt;食べてもよい世界と食べてはいけない世界がある。&lt;br/&gt;限界を設けることによって自由が広がる。選択の責任がある。&lt;br/&gt;アダムとエヴァの後すぐイエス・キリストが現れたのではない。イスラエルの歴史がある。聖書はこの歴史を記す。これは現代でも希望を持つためである。&lt;br/&gt;創世記の「支配せよ」と言う言葉は「人間が地を、地は人間を作る」「大地は人間の一部である」という考えの現れである。&lt;br/&gt;キリスト教に自然破壊の大きな責任があると、エコロジストに言われることがあるが、聖書の「支配せよ」という言葉の間違った解釈による。西欧思想はキリスト教だけでなく、もう少し多次元の思想が含まれている。  &lt;br/&gt;</記事>
<記事 タイトル="エコロジー概論／観点／聖書的考察" サブタイトル="自然の管理人である人間" 文献="0" 人物="┃　┗" 年月日="gairon04" 連続="3" 画像="" 横サイズ="" 移動="21" リンク名="神学セミナー19901023犬飼政一師" リンク="" コメント="暮らし方が不徹底だと信仰の証にならない" ジャンプ="eco_gairon">自然を考察することは神を考察すること&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;キリスト者が環境問題と取り組むために&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;　暮らしの中の信仰を今までは修徳神学、霊性神学に押しつけてきた。かっての倫理神学は罪のリストを数えたて、倫理神学の特殊問題だけしか扱わず、全体を習わなかった。しかし、暮らしの中の信仰こそ倫理神学の課題である。&lt;br/&gt;　Gn1，28「支配」‥‥今まで人間の便利のためにしてきた。自然全体に対する責任を忘れてきた。自然を考察することはそれを造った神を考察することである。環境問題を信仰の問題としてアプローチしていくことが大切である。</記事>
<記事 タイトル="エコロジー概論／観点／聖書的考察" サブタイトル="創世記「地を支配せよ　1章28節」の意味" 文献="0" 人物="┃　　　┗" 年月日="gairon04" 連続="3" 画像="" 横サイズ="" 移動="22" リンク名="神学セミナー19901023今道瑶子シスター（女子パウロ会）" リンク="" コメント="神に委託された支配人（管理人）の意" ジャンプ="eco_gairon">聖書全体が環境問題に訴えるもの&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;&lt;font size=3&gt;&lt;b&gt;被造物は人間に完成へと導く機会を与える&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br/&gt;【Rm8，19-23】&lt;br/&gt;人間の罪が被造物をむなしさに変えたか？&lt;br/&gt;パウロは宇宙の変容を考えているか？&lt;br/&gt;　パウロはユダヤ教の伝統に従い「創造」と「救い」を切り離していない。アダムの罪が全被造物に影響を及ぼしたことが旧約聖書の中で言われている。&lt;br/&gt;　ユダヤ教では神の知恵である律法を通して人間を義とするだけでなく、律法を通して宇宙万物を創造したという考えがあった（知恵の創造への参与:ﾖﾌﾞ記:Prov8:ｼﾗ24，23:Sap9）。&lt;br/&gt;　パウロが言いたいのは、神がご自分の栄光を映す鏡として造られた宇宙が、人間の罪のためにその摂理的な役目を果たせなくなり、人間を完成へと導く道具である代わりに、人間に道を踏み外させる機会となった（偶像）というのである。人間は被造界の華。  &lt;br/&gt;被造物のとりこになる＝偶像崇拝  &lt;br/&gt;&lt;font size=3&gt;&lt;b&gt;神の計画遂行に参与する＝支配する&lt;/b&gt;&lt;/font&gt;&lt;br/&gt;【】&lt;br/&gt;アダムに委ねられたのは、自己中心的な支配ではなく、神の計画遂行に参与する恵みを与えられて神の執事となるという意味においての（ある目的実現に向かって統率する。人間の運命が宇宙の運命を左右する）である。&lt;br/&gt;【詩編(Ps)】&lt;br/&gt;　イスラエルの詩人たちも他の被造物との連帯を詠っている。イスラエルの詩人は、主の慈しみをたたえて祈るとき、まず神の慈しみの現れとして創造のみ業の数々をあげ、ついでイスラエルの歴史の中で行われた神の慈しみのみ業を讃えている。&lt;br/&gt;【Gn9，10-17】&lt;br/&gt;　アブラハムとの契約に先立つノアの契約は宇宙との契約を含む。&lt;br/&gt;　キリスト教は救いを本質的に共同体的なものと見ている。したがって、人間は自己を地球の動植物群、更にそれを支配している気象、土壌、地形などをひっくるめての生態系の一要素、しかも唯一の責任ある要素として自覚する必要がある。&lt;br/&gt;　したがって宇宙の中に神秘的な仕方で働くキリストの力を信じるものとして、万物に対する尊敬、驚き、感想（観想）の姿勢を育てる必要がある。神秘に対する鋭敏な感覚。</記事>
<記事 タイトル="エコロジー概論／観点／環境問題批判" サブタイトル="民主主義では地球は守れない／全体主義的統制なしに解決する道はあるのか" 文献="0" 人物="┣環境問題批判" 年月日="gairon01" 連続="" 画像="" 横サイズ="" 移動="23" リンク名="" リンク="" コメント="文芸春秋19920500　福田和也（文芸評論家）" ジャンプ="eco_gairon"> １．環境が大事という「空気」&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;　気がつくと、いつの間にか、私たちの身の回りは、エコロジーや環境問題で埋め尽くされている。ニュース番組では、珊瑚礁や河川の保護に関する報道が取り上げられ、また、新聞ではフロンガスの規制と新しく北米で発見されたオゾンホールの記事が目に入る。‥‥&lt;br/&gt;このように、エコロジイが浸透したことは、「地球的」な課題にとり組む、という点からすれば、喜ばしいのかもしれない。だが、マスメディアだけでなく、身近な日用品や子供の絵本までが総動員されて、ひとつのメッセージを異口同音に唱えている空気は、それがもっともな話しであればあるほど、何か不思議で、これで本当にいいのだろうか、という不安も抱かせる。&lt;br/&gt;　というのも、日常生活のレベルで盛り上がっている気運が、問題解決に役に立つかどうか、実際にはよくわからないからである。例えばアメリカでは、清涼飲料水のビンを、強制的にリサイクルする法律がいくつかの州で採択されている。だが、ビンの再利用に伴う洗浄と殺菌のために、従来に比べて水は１５倍、ガソリンおよびディーゼル燃料は２５％も使用量が増えたという（『強制的デポジット制度 その恩恵を受けるものはいない』全米ソフトドリンク協会）。&lt;br/&gt;このような、いわばエコロジイ的な矛盾を、我々はどう考えたらいいのだろうか。リサイクルによってビンが節約されるメリットと、そのために浪費される水やガソリンの損失のどちらを優先すべきなのだろうか。ビンのリサイクルが、環境問題に貢献しているのか否か、と言った正否を適格に判断できる基準、つまり環境にとって「よい」というのは、いったいどういうことなのかという根本的問題を、われわれはまだ解明していないのである。&lt;br/&gt;　つまりこの事態が示しているのは、環境問題とは、いったい何なのか、どう取り組むことが本当の解決に繋がるのか、と言う基本的な考察が、まだ十分なされていないという事実なのである。‥‥&lt;br/&gt;水質や生態環境へ与える影響が十分に議論されないまま、反対運動ばかりが盛り上がった長良川河口堰の問題にしろ、ほとんど熱帯雨林の保護に貢献しない割箸や合成洗剤の追放運動（『地球は本当に危ないか？』北村美村氏）にしろ、環境問題が大事だという「空気」の醸成だけが目的となって、肝心の問題は置き去りにされている。&lt;br/&gt;　そしてこうした姿勢が、広告や運動家のレベルだけでなく、言論界から政府官庁に至るまでの、日本の環境問題への取り組み全体を覆っているようだ。&lt;br/&gt;　この点で、一番気になるのが、今年６月にブラジルで開かれる地球サミットでの調印を目指して進められている、地球温暖化防止条約（「気候変動に関する枠組み条約」）の、わが国の交渉ぶりである。&lt;br/&gt;‥‥この条約を締結するに当たって、まず主要なＣＯ2の排出者である先進国間の協調の上で、発展途上国との利害、また財政支援等の問題を交渉するという手順が構想されていたが、肝心の先進国の間で、足並みが乱れてしまった。&lt;br/&gt;　端役からＣＯ2の総量規制を打ち出し、条約化へのイチシアティブを取ってきたＥＣは、先進国の排出量を、２０００年までに１９９０年のレベルで安定化させることを提案している。&lt;br/&gt;それにたいしてアメリカは、温度上昇と大気中のＣＯ2濃度の相関関係の精密な分析が成されていないこと、先進国を規制するより今後増大する発展途上国を規制したほうが効果的であると言った主張を掲げて、規制の具体的な数量や、目標実現の時期を明記することに強く反対している。‥‥アメリカは条約の必要性は認めながらも、自国が規制の対象になることを、巧みに逃れようとしている印象がある。そしてわが国は、ＥＣと協調し、２０００年までの排出量の安定化で合意している。&lt;br/&gt;‥‥確かに国際会議で、誰もが正しいとせざるを得ないことを話し、アメリカを非難すれば、気持ちがいいにちがいない。現在の環境問題における日本のポジションが良好で、世論にもアピールするために、ブラジルの地球サミットには、同行希望の国会議員が８０人近くも殺到して、人選が難航を極めているという。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt; ２．ニュー・グローバリズムの虚構&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;　なるほど、環境問題で日本がいい気になってしかるべき背景はあるようだ。まず何といっても、日本は、ＣＯ2の排出量が、一人当り５トン強のアメリカはもちろん、一人当たり３トンの旧西ドイツに対してすら、２．２トンと少なく、また、国内総生産ＧＤＰ当たりのＣＯ2排出量は、０．１３トン／１０００ドルと０．４３トン／１０００ドルのアメリカに比べれば３倍以上も効率がいい（データは、平成２年版、３年版『環境白書』）。&lt;br/&gt;　こうした低公害と高い効率性は、公害問題や石油ショックに際して、日本が真剣に省エネルギーと排気ガス対策に取り組んだ、誇るべき成果であるのは確かである。省エネと公害防止のノウハウについては、日本は世界一といっても過言ではない。&lt;br/&gt;　そしてまた、国内には不況風が吹いているとはいえ、世界経済全体から見れば最高の貿易黒字国であり、途上国の環境保護のための、資金の担い手になりうることも事実だろう。だが、そうした「取りあえずできること」の大きな能力とは別に、日本は本当にこの問題を、自国の立場と、将来を考えた上で行動しているだろうか。「世界的正義」に迎合してうかれているとすれば、非常に心もとない。&lt;br/&gt;‥‥例えば「地球環境政策を有効なものにするためには、すべての国にたいして法的強制力を持つ国際機関を設立する」と言った環境庁地球環境経済研究会の提案が、いくら理論的には正当な帰結であるとしても、本当に実現可能なのか、そして環境問題にとって有効なのか、十分に考えられているだろうか。&lt;br/&gt;　日本の環境政策として「一国の狭い『国益』を脱却し、新たな『脱国家利益』あるいは『地球益』（グローバル・インタレスト）の視点に立脚した国際協力を展開し、それをわが国の言葉として、国際的に主張していくべきである。これは、地球環境の危機を前にした新たな『共通の安全保障』、あるいは『新国際協調主義』（ニュー・グローバリズム）の考えであり、理想主義の復権である」『地球環境の政治経済学』環境庁地球環境経済研究会）といった提言は、耳ざわりがいいだけの話しのように、私には思えるのだ。&lt;br/&gt;  &lt;br/&gt; ３．地球規模の計画経済体制は可能か&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;　と言うのも、二酸化炭素の抑制は、これまでの公害問題とは、まったく性格が異なっているからだ。水銀やカドミウム、またＰＣＢといった物質は、排水から完全に除去したり、代替物を開発することがさほど困難ではなかった。しかしＣＯ2の排出は、化石燃料を使う限り、そして人類が火を使う限り、避けられないのである。&lt;br/&gt;　もちろん短期的には、ＣＯ2の抑制と経済成長は両立しうるかもしれない。しかし、いくら技術的に改良を行っても、効率の限界がやってくる。‥‥その点で、根本的な対策は、現在の展望からするとほぼ不可能なのだ。&lt;br/&gt;　自動車の代替エネルギーとして注目されている太陽電池にしても、現在の技術では、製造に大量の化石燃料を消費しなければならないし、また風力発電や地熱発電といったソフト・エネルギーは、インフラ設備にたいしての発電効率が悪く、発電需要増をまかなうだけ建設すれば、逆に資源の浪費による環境破壊をもたらしかねない。&lt;br/&gt;　つまり、二酸化炭素の抑制による化石燃料の制限は、遅かれ早かれ工業生産や交通に制約をきたし、経済成長の停止をもたらすのである。&lt;br/&gt;‥‥発展途上国の場合、利益の追求がどうしても優先されてしまうために、経済成長のペースの方が効率化よりも早くなり、二酸化炭素の排出量が飛躍的に増えていく可能性が高い。&lt;br/&gt;‥‥このことは、いかに現在しめされている環境対策が不毛であり、実現不可能であるかを示している。&lt;br/&gt;　こうした観点に立つならば、ごく短期的には別として、二酸化炭素の国際的協調による削減は不可能である。強制収容所や大粛清によっても、共産主義社会が実現できなかったように、人類の滅亡や地球の壊滅といった恐怖をつきつけても、人間の理念によって経済や政治を統制することは、絶対に不可能なのである。‥‥&lt;br/&gt;&lt;br/&gt; ４．アメリカが躊躇した意味&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;‥‥現在アメリカが、環境問題に積極的になれないのは、深刻な不況と密接な関係がある。‥‥だが、ここで問われているのは、アメリカ経済が根本的に復活するような改革が行われなければ、ＣＯ2の抑制も実現しないだろうというような見通しだけではないのだ。ＣＯ2の抑制は、アメリカ建国の精神と、その消費文明とライフ・スタイル全体が象徴しているような、個人の自由や、豊かさ、経済的成功の称賛、そして民主主義等の価値観と、相容れないのである。&lt;br/&gt;‥‥アメリカの姿勢は、いかにそれが泥沼に足を取られた巨象の懊悩であるとしても、日本の軽薄な迎合に比べれば、はるかに真剣に環境問題にとり組んでいる、‥‥と私には思えるのだ。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;　５．「無限」幻想の呪縛&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;　環境問題が問いかけているのは、化石燃料を消費することで、人の交通と物の流通を確保し、大量生産によって安価で高い品質の工業製品を入手して、冷暖房の完備した住宅で暮らしている先進国の生活のあり方であり、こうした暮らしを実現した近代文明なのである。&lt;br/&gt;‥‥たしかに新しい車は、燃費が向上しているかもしれないし、冷蔵庫はもうフロンガスを使用していないかもしれない。それでも「新製品」を作るためには、開発と生産に莫大なエネルギーを消費する。これまでの車はゴミになるか、また大量のエネルギーを使って再生されるかしなければならない。こうした無限の開発による新陳代謝を前提として、はじめて我々の経済は機能するのであり、また存続しうるのである。生活が少しずつ進歩することが、そのまま経済の成長とも繋がっているのだ。だから、もしもＣＯ2を無限に排出することができないなら、また、無限に経済成長を続けることができないならば、現在我々が享受している文明は、存続し得ないのである。&lt;br/&gt;　もちろん科学者たちは、新しい技術を開発しようと試みるだろうし、相応の成果や、目覚ましい発明が数多くなされるに違いない。だが、それにも関らず、地球の大きさが一定の「限界」を持ちその大気の許容量もまた「限界」を持っている以上、いつかはエネルギー消費の「限界」も訪れるのだ。そしてこうした開発への信仰、つまり「人類の英知」の無限の発展に対する信頼こそが、環境問題において疑われているのである。近代の本質は、一言であらわせば、「無限」という概念で説明することができるだろう。&lt;br/&gt;　ニコラウス・クザーヌスが、人間精神の無限性を唱えて以来、数世紀に及ぶ年月の間、人間は科学により莫大な知識を獲得しつづけ、技術の発達によりほぼ無制限に資源を獲得し、常に新しい思想を展開しつづけてきた。&lt;br/&gt;　人間が自らの可能性を、「無限」と思うようになったのは、西欧がユーラシア大陸の半島を飛び出し、またキリスト教の知的制約から解き放たれて以来のことである。天動説が破綻して、地動説が採用されたとき、それまで地球を中心に構成されていた、閉じられて周密な宇宙は、どこにも中心はなく、均一な無限の空間へと拡散した。&lt;br/&gt;　すべての空間が等質ならば、あらゆる大地は住むべき土地である、あらゆる場所にヨーロッパと同じ文明と価値観を、普遍的に実現するとことができるはずだ。帆船にのったヨーロッパ人たちは、新大陸にたどり着き、そこで実際に「無限」の大地と富を発見した。その無限の空間に、上と王様を追放した市民は、「無限」に豊かに公正かつ平等になりうる国を作った。その国では、誰もが自由であり、また個人の権利を主張でき、そしてついにはユートピアとなるまで発展していくはずだった。&lt;br/&gt;‥‥だが、地球環境が示しているのは、人間にとって「無限」の領域など存在しない、「無限」の進歩と発展は有り得ないという事なのである。&lt;br/&gt;　「無限」がないというのはどういう事なのか。この問いに、近代人は、真に直面したことがない。確かに、アインシュタインによりニュートン力学が崩壊して以来、宇宙が有限であることは、理解されている。また、すでに１９７０年のローマ・クラブのレポート以来、人間が利用しうる地球の資源が有限であることは、認識されていた。&lt;br/&gt;　そして環境問題についても、「限られた」地球環境の保全を目指す、様々な提案が現在掲げられ、「近代」を越え、近代とは異なる価値観によってこの難問を克服することができると称する論者たちが、提案を争っている。&lt;br/&gt;　その中でもっとも典型的な藤原保信氏は、環境問題を「西欧に生まれ、やがて世界に浸透しそれを支配しているかにみえる近代西欧文化に起因している限り、我々にはその近代文化への根本的な反省を迫られている」として、「人間中心主義」「個人中心主義」「国家中心主義」を越えることを提案している。&lt;br/&gt;　その克服の内容は、人間より地球の生命を尊重し、国家にたいして、国連の強化等によって実現された世界システムを対置することだという（『ＣＥＬ』No.18）。&lt;br/&gt;だが、こうした発想自体が極めて「近代」的であり、「ヒューマン」なものであることは言うまでもない。ひとつの「世界」という地理的領域自体が、大航海時代以後に成立した近代の産物であり、また各国を「世界」へと統合する志向は、近代的政治思想に普遍的に見られる、「無限」的な妄想ではないだろうか。&lt;br/&gt;　地球環境への提言として、もっとも一般的な「近代」を越えるための政策が、「国民国家」を越えると称する、こうした「世界システム」「ニュー・グローバリズム」「地球全体主義」といった、「世界政府」構想である。だが世界を統一するという発想は、「世界革命」と同様の、普遍と無限という近代的発想の極致というべきものであって、近代の限界を越えるのでなく、近代の病をさらにすすめているにすぎない。&lt;br/&gt;　というよりも、「世界国家」にかぎらず、「国民国家」の次に、何か新しい政治システムや体制が存在する、近代を越え国家を越える何かが存在するという発想自体が、「無限」に歴史が進歩し、新しい思想や価値があらわれるとする、「無限」を元とした近代的発想なのである。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;「限界」の中で生きる&lt;br/&gt;その点については、「人間」を越えて、「自然」中心の価値観による文明を作ろうとする、エコロジストたちも変わりはない。ルソーやフンボルトを先駆とするロマン主義以降、ヨーロッパにおける自然崇拝は、自我の無限の発展の投影であり、その本質は今日の自然保護団体まで変わっていない。&lt;br/&gt;Ｋ・トマスは、イギリスにおける自然愛好が、自然の陶冶としての庭園に始まったことを指摘している（『人間と自然界』）。アルプス山脈への登山道や、トンネル、馬車、そして鉄道といった交通網の整備が、文学における山の崇高美の発見をもたらしたように、自然にたいする人間の支配力の増大が、庭園から丘、山から荒野へと、「自然」崇拝の領域を拡大したのである。&lt;br/&gt;この点については、エコロジストの多くが、スキューヴァ・ダイビングやトレッキング等の「支配」によって自然と親しんでいる現在と変わらない。草野厚氏は、長良川の汚染を告発する立松和平氏が、一方でラリィに参加して「アフリカ大陸を汚染している」ことを訝っているが（『諸君！』四月号）、自然愛好家とは、元来自然を「支配」する存在であり、彼らの「愛情」は、支配の一形態にすぎないのである。&lt;br/&gt;　だから、マレーシアの熱帯雨林の伐採をめぐって争う、ヨーロッパのエコロジストと現地政府の対立は、けして近代文明にたいする反近代やポスト近代的価値観の戦いではない。それは、「開発」と「愛好」という、近代的自然支配の二つの流儀の反目なのである。それゆえにエコロジストたちが、「人間」に替わって崇拝しようとしている「自然」もまた、近代西欧の産物であり、実際には近代的自我の持つ無限への憧憬の、投影物にすぎない。｛・筆者はエコロジストを一巴ひとからげにしているようだ。確かに筆者の言うような西欧伝統スタイルのエコロジストもいるが、自然に学ぶ姿勢、自然の一部としての人間の自覚、そこから来る「自然愛」も育ってきていることを重視していないようだ。｝&lt;br/&gt;　「無限」がなくなれば、ただ際限のない富や、限りなく資源を消費するライフ・スタイルだけがなくなるのではない。&lt;br/&gt;　「無限」という幻想がなければ、無限に夢を追求する「人間」も存在しなくなるし、人間が愛好する「自然」もなくなるのである。「無限」の領域が存在しない、ということは、「無限」に科学も進歩しないということであり、世界連邦やニュー・グローバリズムといった政治体制の、「無限」の発展も有り得ない、ということなのである。&lt;br/&gt;　富と知識と正義の三つの「無限」から、我々は覚めなければならない。この夢から覚めてみれば、ただ環境問題だけではなく、もともとこの世界には「無限」など存在しないことが明らかになるだろう。&lt;br/&gt;　西欧人が無限の荒野だと思った土地は、インディアンや、マリオ族や、アポリジニィの土地であったのだ。無限の経済発展が可能だと思われたのは、ただ容易に土地を奪うことが出来たためであり、植民地における「収奪」という生産性の高さが国内経済の矛盾を解決したからであり、また時には砲艦外交によって容易に市場を開放させ、圧倒的な競争力によって、後進国の市場を征服できたからである。かつてランカスターの木綿織物工業に飛躍的な成長をもたらしたのは、インドの繊維産業の絶滅だった。&lt;br/&gt;　だが現在、我が国の自動車メーカーや電子産業は、アメリカにも、フランスにも自動車産業を存続させなければならない。そのためには、現在の管理貿易体制を、ますます強めていくほかない。「無限」の成長がなくなった国際貿易においては、既に「無限」の自由は死につつある。もちろん各メーカーは、現在の枠の中で、車を高級化したり、利益率を上げることで相対的な「成長」を遂げることは出来るだろう。だが、その成長は「無限」ではなく、いつかは「枠」にぶつかる時が来るのである。&lt;br/&gt;‥‥つまり、成長、進歩、発展に限界があることを前提にした、世界観、人生観を、近代に生きる我々は持っていないのだ。今日が昨日より、よい日であるという、「進歩と発展」の期待の上に、我々の暦は書かれているのだ。&lt;br/&gt;　そして、環境問題が、我々に求めているもっとも本質的で、重要な問いは、進歩と発展の希望なしに、限界の中で生きるというのは、どういうことなのか、という問いなのである。&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;　６．「無限」という夢からの覚醒&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;　‥‥だから我々は、「新しい」進歩を求めるのでなく、近代の限界に直面して、身体を退いていき、考えなければならないのではないだろうか。そのためには、新しい思想を発明するのではなく、過去に存在したさまざまな知恵の中から、有益な思想や政策を探し、そこから学ぶような、今日では復古的とかアナクロニズムと言われているような姿勢も、一考に値するのではないだろうか。&lt;br/&gt;例えば、視線を後ろにずらして、我々にとっての近代以前の時代、江戸時代を考えてみると、「限界」の中で生きるという意味が、おぼろげに見えてくる。まさしく、江戸は、世界史の中でも画期的な「限界」の中の文明を達成したと言えるのではないだろうか。そこには鎖国という領域の、封建制という政治の、解釈学という知識の、三つの限界が、厳然と存在していたのである。&lt;br/&gt;鎖国という相対的閉鎖系（オランダや清国等との貿易、知的人的交流は存在した）、武士株の売買や用人による地下(ｼﾞｹﾞ)の取り立てといった柔軟な運用を取りながら、各藩の存続を政治目的の主眼とした封建体制、そして儒教、国学のテクストを解釈するという、限界の中での多様性を享受する知性といった江戸の三つの有限は、近代の三つの無限の反対物として考察することが可能である。また江戸期の植林政策や水利が、極めて環境論的に合理的だったと言うことは、早くから指摘されており、少なからぬ内外のエコロジストの関心をひいてきた。&lt;br/&gt;　発展でなく、存続を目的としているために、平和の維持が最高の価値にされ、林の伐採は植林と平行し、また政治は家系の存続に最大の価値が置かれた。&lt;br/&gt;　そこには、もちろん「自由」はごく乏しいものであり、平等はなかった。だが半永久的平和はあり、洗練を極めた文化はあり、また自然環境との融和が、相対的には実現されていた。その点で、江戸と近代の相違が、我々にとっての近代後を考える上での、一つのヒントになりうることは確かだし、また入江隆則氏のように、「世界の江戸化」という形で、有限としての地球を、閉鎖系として考察する提案も有意義だと思う。&lt;br/&gt;‥‥現在の地球環境が示しているのは、すべての人間が、思い通りの豊かな生活を送れるわけではない、ということであり、あらゆる国が繁栄するには、地球が狭すぎるということなのである。我々が生きている世界は、だれかが富めばだれかが貧しくなる世界であり、ある国の平穏は、ほかの国の戦乱によって贖われるような世界なのである。&lt;br/&gt;‥‥我々は、飢餓も、病気も貧困も追放することは出来ない。それは、傲慢な思い上りであり、実際は近代の全史を通じて、世界は悲惨であったにもかかわらず、近代人は、「無限」の未来への信仰によって、こうした災厄が解決可能であり、また明日における救済のための犠牲であると、ごまかしてきたのである。&lt;br/&gt;　だが、近代が限界に近づいて、我々が認識せざるを得ないことは、結局人は他人を救うことは出来ないし、自分とその同族以上には手が回らない悲しい生き物である、という替わらない事実なのである。「無限」という夢から醒めた後、我々は、すべての飢えた子供を救えないがゆえに、自分の子供が飢えないでいることを感謝し、その恵みのために祈ることを再び始めるだろう。&lt;br/&gt;　改めて言うまでもないだろうが、私に、特に具体的な、地球環境についての、見通しがあるわけではない。ただ、それは徹底した近代への絶望、無限の自由、無限の富、無限の正義といった近代の約束をあきらめ、我々が限られた力しか持たず、他者の犠牲や死によって辛うじて生存しうるような、餓鬼道に生きる存在であることを認めることから、始めざるを得ないと思うだけである。&lt;br/&gt;　そして、そのような自分の姿と、折り合いをつけることが出来たのなら、近代以前に我々が享受していた、救いと慰め、そして限られた幸福と限られた豊かさを取り戻せるのではないだろうか。そして、結局人間にとっての、喜びや悲しみは、近代以前も、近代のただ中も、それ以降も、変わらないということに思い至るのではないだろうか。</記事>
<記事 タイトル="エコロジー概論／観点／環境問題批判" サブタイトル="高度成長から公害反対運動へ" 文献="0" 人物="┣環境問題の歴史的区分（１９５０〜１９７０年）" 年月日="gairon01" 連続="" 画像="" 横サイズ="" 移動="24" リンク名="国連ﾌﾞﾗｼﾞﾙ会議市民連絡会パンフレット参照19920000" リンク="" コメント="" ジャンプ="eco_gairon">水俣からゴルフ場へ&lt;br/&gt; &lt;br/&gt;公害を発生させる構造&lt;br/&gt;@民間設備投資を優先させ、環境保全投資を省略&lt;br/&gt;A資源浪費‥‥環境破壊型の重化学工業中心の産業構造&lt;br/&gt;B東京・大阪・名古屋の三大都市圏にに経済力と人口が集中&lt;br/&gt;C自動車中心の大量輸送システムの確立&lt;br/&gt;D大量消費生活様式の普及と大量廃棄物を出す生活様式&lt;br/&gt;E企業への忠誠が基本的人権より優先される  &lt;br/&gt;&lt;br/&gt;１９５０〜１９７０年の位置づけ &lt;br/&gt; &lt;br/&gt;　公害反対運動の二つの流れ&lt;br/&gt;&lt;br/&gt;　　　＜１＞公害裁判→賠償・公害対策‥‥公害行政の転換を進めた&lt;br/&gt;　　　　　　　四日市公害裁判(&apos;67〜72)&lt;br/&gt;　　　　　　　※４大公害裁判（…&lt;br/&gt;　　　＜２＞革新自治体による環境基準の見直し‥‥三大都市、地方の首都の市&lt;br/&gt;　　　　　　（６０年代後半〜７０年初頭）　　　　長が環境保全の革新派に&lt;br/&gt;　　　　　　　東京都公害防止条例 </記事>
<記事 タイトル="エコロジー概論／観点／キリスト者が環境問題と取り組むために" サブタイトル="" 文献="0" 人物="┣聖書的考察" 年月日="gairon01" 連続="" 画像="" 横サイズ="" 移動="25" リンク名="" リンク="" コメント="" ジャンプ="eco_gairon"></記事>
<記事 タイトル="エコロジー概論／観点／キリスト者が環境問題と取り組むために" サブタイトル="自然を考察することは神を考察すること" 文献="0" 人物="┃┣" 年月日="gairon01" 連続="3" 画像="" 横サイズ="" 移動="26" リンク名="神学セミナー19901023　犬飼政一師" リンク="" コメント="暮らし方が不徹底だと信仰の証にならない" ジャンプ="eco_gairon">倫理司牧神学的な側面&lt;br/&gt;　人間は霊魂だけの存在ではない。自然環境の一部である。教会の中には古い考えの司祭、信徒がいる。信仰観、教会観が生き方の中に根ざしていない場合がある。「生き方」と言うとき社会との関わりを指し、「暮らし方」と言うとき自然との関わりを指している場合がある。キリスト者の生き方、暮らし方が不徹底だと信仰の証にならない。暮らしの中に信仰がにじみでているか？行いのともなわない信仰についてヤコブの手紙で述べている。暮らしの中の信仰を今までは修徳神学、霊性神学に押しつけてきた。かっての倫理神学は罪のリストを数えたて、倫理神学の特殊問題だけしか扱わず、全体を習わなかった。スコラ、ネオ・スコラも同様。しかし、暮らしの中の信仰こそ倫理神学の課題である。&lt;br/&gt;　今日教会の中で「証」と言っているものは世間の人から独善、偽善と見なされている。本当の「証」とは、わたしがＪＣから何を得たか、それに従って私はどう生きているかと言うこと。人並、世間並ならキリストを証ししてはいない。&lt;br/&gt;　Gn1，28「支配」‥‥今まで人間の便利のためにしてきた。自然全体に対する責任を忘れてきた。私たちの自然観に問題があった。神から与えられたものを恵みとして大切に使うことが大事。従来の神学を見直すこと。環境の神学ということも言われている。自然という言葉は曖昧。本性、NATURA、物理的を指すこともある。近代は自然を対象物として見てきた。古い自然観では対応しきれない。自然を考察することはそれを造った神を考察することである。人間と自然の有機的なつながりを見ていかなければ。かっての自然神学も自然の意味理解よりも、究極的神の認識論、存在論に終始してしまった。自然の固有な意味の考察まで手が回らなかった。自然を物象化しないで創造のみ業としてみること。&lt;br/&gt;　以上のことから、環境問題を信仰の問題としてアプローチしていくことが大切である。</記事>
<記事 タイトル="エコロジー概論／観点／キリスト者が環境問題と取り組むために" サブタイトル="聖書全体が環境問題に訴えるもの" 文献="0" 人物="┃┣" 年月日="gairon01" 連続="3" 画像="" 横サイズ="" 移動="27" リンク名="神学セミナー19901023　今道瑶子シスター（女子パウロ会）" リンク="" コメント="被造物のとりこになる＝偶像崇拝／創世記「地を支配せよ」の意味は支配人としての意味" ジャンプ="eco_gairon">被造物は人間に完成へと導く機会を与える&lt;br/&gt;【Rm8，19-23】&lt;br/&gt;人間の罪が被造物をむなしさに変えたか？&lt;br/&gt;パウロは宇宙の変容を考えているか？&lt;br/&gt;　パウロはユダヤ教の伝統に従い「創造」と「救い」を切り離していない。アダムの罪が全被造物に影響を及ぼしたことが旧約聖書の中で言われている。&lt;br/&gt;　ユダヤ教では神の知恵である律法を通して人間を義とするだけでなく、律法を通して宇宙万物を創造したという考えがあった（知恵の創造への参与:ﾖﾌﾞ記:Prov8:ｼﾗ24，23:Sap9）。&lt;br/&gt;　パウロが言いたいのは、神がご自分の栄光を映す鏡として造られた宇宙が、人間の罪のためにその摂理的な役目を果たせなくなり、人間を完成へと導く道具である代わりに、人間に道を踏み外させる機会となった（偶像）というのである。人間は被造界の華。  &lt;br/&gt;  &lt;br/&gt;神の計画遂行に参与する＝支配する&lt;br/&gt;【Gn1，28】&lt;br/&gt;アダムに委ねられたのは、自己中心的な支配ではなく、神の計画遂行に参与する恵みを与えられて神の執事となるという意味においての「支配」（ある目的実現に向かって統率する。人間の運命が宇宙の運命を左右する）である。&lt;br/&gt;【詩編(Ps)】&lt;br/&gt;　イスラエルの詩人たちも他の被造物との連帯を詠っている。イスラエルの詩人は、主の慈しみをたたえて祈るとき、まず神の慈しみの現れとして創造のみ業の数々をあげ、ついでイスラエルの歴史の中で行われた神の慈しみのみ業を讃えている。&lt;br/&gt;【Gn9，10-17】&lt;br/&gt;　アブラハムとの契約に先立つノアの契約は宇宙との契約を含む。&lt;br/&gt;　キリスト教は救いを本質的に共同体的なものと見ている。したがって、人間は自己を地球の動植物群、更にそれを支配している気象、土壌、地形などをひっくるめての生態系の一要素、しかも唯一の責任ある要素として自覚する必要がある。&lt;br/&gt;　したがって宇宙の中に神秘的な仕方で働くキリストの力を信じるものとして、万物に対する尊敬、驚き、感想（観想）の姿勢を育てる必要がある。神秘に対する鋭敏な感覚。</記事>
<記事 タイトル="エコロジー概論／観点／キリスト者が環境問題と取り組むために" サブタイトル="聖書にみる環境問題へのアプローチ" 文献="0" 人物="┃┗" 年月日="gairon01" 連続="3" 画像="" 横サイズ="" 移動="28" リンク名="神学セミナー19901023　泉師" リンク="" コメント="限界【区別】を設けることによって広がる自由＝責任" ジャンプ="eco_gairon">人間が地を、地は人間を作る&lt;br/&gt; &lt;br/&gt;「食べる」という同化作用（和解作用）。&lt;br/&gt;食べてもよい世界と食べてはいけない世界がある。&lt;br/&gt;限界を設けることによって自由が広がる。選択の責任がある。&lt;br/&gt;アダムとエヴァの後すぐイエス・キリストが現れたのではない。イスラエルの歴史がある。聖書はこの歴史を記す。これは現代でも希望を持つためである。&lt;br/&gt;創世記の「支配せよ」と言う言葉は「人間が地を、地は人間を作る」「大地は人間の一部である」という考えの現れである。&lt;br/&gt;キリスト教に自然破壊の大きな責任があると、エコロジストに言われることがあるが、聖書の「支配せよ」という言葉の間違った解釈による。西欧思想はキリスト教だけでなく、もう少し多次元の思想が含まれている。</記事>
<記事 タイトル="エコロジー概論／観点／個人と社会" サブタイトル="個人の欲望と社会の利益" 文献="0" 人物="┣個人と社会" 年月日="gairon01" 連続="" 画像="" 横サイズ="" 移動="29" リンク名="メモ　池田三樹　環境問題を考える" リンク="" コメント="10068" ジャンプ="eco_gairon">・ゴルフ場建設により自然が破壊される問題を考える。&lt;br/&gt;　　個人が自分の財産をどうしようと勝手であろうか？&lt;br/&gt;　　財産はもともと預かりものであって、自分の生命の維持と社会の貢献のためになるように使うべきものではないか。&lt;br/&gt;　　公共機関は上記の問題を仲裁する機関ではないか。&lt;br/&gt;ｃｆｒ．カトリック公文書「地上の平和」国家と個人。</記事>
<記事 タイトル="エコロジー概論／観点／環境税" サブタイトル="賛成、反対を上回る､内閣府調査" 文献="0" 人物="┗環境税　" 年月日="2007/10/08(Mon)14:18" 連続="" 画像="img/700131.jpg" 横サイズ="481" 移動="30" リンク名="山形新聞2007年10月7日" リンク="" コメント="" ジャンプ="eco_gairon"></記事>
<記事 タイトル="エコロジー概論／観点／環境税" サブタイトル="" 文献="2" 人物="　┗" 年月日="2007/10/08(Mon)14:32" 連続="" 画像="" 横サイズ="481" 移動="31" リンク名="森林税" リンク="eco_shinrin.xml" コメント="2006年〜" ジャンプ="eco_gairon"></記事>

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